中国宮記

純ジャパ。中国語の宮殿に囚われて9年目。中国語(ネイティブチェック済み)の日記と日本語訳載せてます。語学勉強にぜひ。

短歌

「短歌」(日本語版)

 わたしは今日古本屋へ行き3冊の本を買った。そのうちの1冊は小説ではなく、短歌集だった。短歌とは何か?短歌というのは5・7・5・7・7という日本語の音節で構成された歌のことである。見たところ「俳句」によく似ているが、短歌と俳句では異なる箇所が2か所ある。まず一つ目が音節の数で、俳句は5・7・5、つまり俳句は短歌と比べて14音足りない。その次が季語だ。季語はその季節を表す名詞のことだ。例えば、雪は冬を表す季語で、蝶ならば春、冷蔵庫なら夏を表す季語となる。雪のように直接的な季語もあれば、冷蔵庫のように間接的な季語もある。俳句については、季語は必要不可欠であり、もし季語がなければ俳句はたちまち川柳になってしまい、俳句ではなくなるのだ。短歌の場合は季語は必要ではなく、また季語を付けても問題はない。季語の規定がなく、短歌の音も少し多いことから、比較的自由なスタイルで詠む(よむ)ことができる。
 この短歌集は「サラダ記念日(俵万智著)」といい、1989年に出版されたものだ。その時代、日本ではバブル経済が起こり、狂乱の時代を迎えていた。そうした中で、サラダ記念日の作風はとても素朴で、普通の人の恋愛心情をよく表していた。
 例えば、
 「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君
 そのボーイフレンドは一見するとぶっきらぼうだが、実はとってもガールフレンドのことがすきなのだ。わたしの高校生の教え子と一緒にこの短歌を読んだ時、乙女ゲーム(たくさんのイケメンに求愛される恋愛ゲーム)のイケメンたちはいつもこんなこと言ってるよ、と言っていた。
 わたしの妹は以前わたしに言った。
「短歌は短い、だから情報として抜けてる部分も多い。だけどその抜けた部分についてはわたしたちが想像してもいい箇所なんだ。自分の好きなように短歌の物語を創造できる。だから、たとえ同じ短歌であっても、読む時々によって印象が変わる。短歌って”終わらない物語”なんだよね」
 わたしは最近比較的に時間があるので、本を読むことに没頭している。

 

《短歌》中文版

  我今天去二手书店买了三本书。其中,有一本书不是小说,而是短歌集。短歌是什么呢?短歌是由五·七·五·七·七个日语音节组成的诗歌。看起来和“俳句”有点相似,不过短歌与俳句有两个不同的地方。首先是音节的数量,俳句是五·七·五,所以俳句和短歌相比差了十四个音节。其次是季语。季语是指由表现季节的名词。比如,雪是表达冬天意思的季语、蝴蝶是春天的季语、冰箱是夏天的季语等等。别说雪那样的直接的季语连冰箱这样的间接的季语也有。对俳句来说,季语是不可或缺的,如果没有季语的话,俳句就变成了“川柳”,而不是俳句了。短歌不需要加季语,但是也可以添加季语。因为没有了季语的规定,短歌的数量较多,风格也比较自由。
  这本短歌集——沙拉达纪念日是1989年出版的。那个时代日本出现泡沫经济,陷入了疯狂。不过,沙拉达纪念日里面的叙事风格比较朴素,表现出了一般人恋爱的心情。
  比如,
「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君
(“要再给我打电话”“等一会儿”总是用命令口来表达爱意的你)。
  虽然主人公的男朋看起来很淡漠,但是其实很爱女朋友。我跟我的年高中的学生一起看这首短歌的时候,好像乙女游戏(很多帅哥向你求爱的恋爱游戏)里的帅哥总是说这样的话”。
  我妹妹以前告诉我说,“短歌很短,所以里面的信息一定有缺失。但是有缺失的地方,我们可以随便补充、天马行空也想象短歌的故事。所以,我每次看短歌的时候,都有不一样的感受,应该说每首短歌都是一段不会结束的故事”。

  我最近比较有时间,所以在埋头看书。